Part-Time Lover
或いは不完全なるこの星のワリと正しい愛し方
"It’s your presence alone that gives this game meaning and makes it worth my time."

PART-TIME LOVER
或いは不完全なるこの星のワリと正しい愛し方
やあ、初めまして。僕はロビン。色彩に乏しい冬のロンドンで、気まぐれに爆破テロを阻止してしまった、花のMI6スパイだ。――そう、全てはあの日、埃っぽい裏通りで出会った、青い瞳のネコのせい。 おかげでビルは無事なのに、僕の平穏で退屈な日常の方は木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったんだ。 暴徒のポーン、武器持ちのルーク、姿の見えない黒のキング。 気付けばこの街全体が、巨大なチェス盤に化けていた。 そんで僕の役回りは、四方八方から睨まれ「CHECK」を掛けられ続ける、孤立無援の白のキング。 ただ駆け回り、マスからマスへ逃れるだけの、危ういゲームの幕開けだ。 ああ、酷い話だろう? 物理学者が愛した「シュレーディンガーの猫」の寓話みたいに、この不条理な世界じゃ、箱を開けて観測するまで人の生死は重ね合わせの闇の中だ。さすがの僕でも明日の朝を無事に迎えられるかは五分五分、もしかしたら冷たいテムズの底かも知れない。 けれども、僕の全てを見透かすあの男―― アイリッシュ・マフィアの殺し屋シャーロック・ホームズは、目を細めて囁いた。 『問題は黒のキングという記号ではない。盤上は、お前が立たされ見ている世界の反映に過ぎず、そこに存在する敵もまた、本質を見誤らなければ脅威にさえなり得ない』 25.12マイル四方のグリッド、割り切れない円周率のディスタンス。 駒の台座に隠されたアルファベットと、世にも悪辣なパスコード。 P対NPな黒幕探しに、ルイス・キャロルの鏡の国。 それからそう……あのスティービー・ワンダーの、甘い、冗談めかしたリフレイン。 『システムが完璧であろうとすればするほど、内部には証明不能な盲点が生まれる』 なるほど、彼の言う通りだった。 幾重にも張り巡らされた仕掛けの先で、僕自身が選択し、足掻いたその瞬間に、世界は確率のサイコロを振るのを止めた。いや……ちょっと違うかな。この華麗な一大喜劇の本当のおかしみは、誰もが誰かのパートタイム・ラヴァーだったってことなんだよ! 無意味なガラクタだったはずのこの盤で、最後に君が見つけるのは、一体どんな景色だろうね? 嘘を愛し矛盾と踊る僕たちの、あまりに自由で非公式な記録。 さあ、この箱を開けてごらん!
【Part-Time Lover】
― 不実なる僕たちの生存戦略 ―
やあ、シャーロック。
君がキッチンで、まるで爆弾の信管でも扱うようなミリ単位の正確さでチーズを切り分けていたあの夜のことを覚えているかい?
古ぼけた有線ラジオから、あの軽快で、だけどひどく不穏なベースラインが流れていたね。
スティービー・ワンダー。
1985年に誕生したポップ・マスターピース――『Part-Time Lover』。
君はあの時、指先のパン屑を払うような冷淡さで「悪くない。皮肉が効いている」と言った。
ゲーデルの不完全性定理をわざわざ引き合いに出して、完璧に見えるシステム(=善と悪、あるいは僕たちを縛る組織)の隙間を突く「例外(バグ)」として、この曲の構造を肯定してみせたんだ。
確かに、理論上は君の言う通りだ。
だけどさ、あのごちゃついた薄暗いキッチンで、君と一つのイヤホンを分け合って聴いていた時――僕の頭の中で鳴り響いていたのは、そんな高尚な数式じゃない。もっと泥臭くて、もっと切実で、僕たち二人の歪んだ距離感そのもののような「裏切りの詩」だったんだよ。
君がくれた青いハイネックニットの、少しきつめの首回りに指をかけながら、僕が僕たちの逃走劇に合わせて翻訳した『パートタイム・ラヴァー』を、ここに置いておくね。
【宿命のトリビア】「因果応報」の悪戯
歌詞を紐解く前に、少しだけこの曲の背景についてお喋りをさせておくれ。
君の大好きな「実体験」に基づく、ひどく人間臭い事実の羅列さ。
実はね、スティービー・ワンダーはこの曲について、単なるフィクションではなく「自分自身の生々しい恋愛経験」に基づいて作ったと語っているんだ。彼の残した生々しいコメントをそのまま君に披露しよう。
> 「僕の書く歌はすべて自分の体験を通して生まれている。当時、ある女の子と別れ話が進んでいて、同時に別の女の子とも会っていた時期があったんだ。ある日僕が家に帰ると、電話がかかってきた。出ると、男のくせにわざわざ女の声を真似て、(別れ話が進んでいる方の)彼女の女友達のふりをして『〇〇ちゃん、そこにいる?』って聞いてきたんだよ。その必死な様子で、今まで気づかなかった彼女の裏の一面を察したね。それでこの『パート・タイム・ラバー』の歌詞(自分も浮気していたが、実は相手も同じ手口で浮気していた)を書き上げた時、ふと思ったんだ。『こりゃ、マズいことになる連中がけっこういるぞ』ってね」
ねえ、最高に滑稽で、最高にスリリングだと思わないかい?
自分が「浮気をする側(騙す側)」として優位に立ち、完璧にゲームを支配していると錯覚していた天才が、相手の男の必死すぎる「女声の変装電話」という、あまりにもマヌケで決定的なバグによって、自分の裏をかかれていたことに気づかされたんだ。
「男のくせにわざわざ女の声を真似て」だなんて……なんだか、僕の得意な裏工作の応酬を見ているようで親近感が湧いてしまうよ。
スティービーがこの曲を書き上げた時に呟いた「こりゃ、マズいことになる連中がけっこういるぞ」という予感は、まさに数十年後のロンドンで、不実な生存戦略を立てていた僕たちの頭上に、そのまま鋭利なナイフとなって突き刺さることになるのさ。
私訳&解説
『Part-Time Lover』
1. 示し合わせのワンコール
Call up, ring once, hang up the phone
To let me know you made it home
Don't want nothing to be wrong with part-time lover
【私訳】
ワンコールだけ鳴らして、すぐに切る。
それが君の「無事にねぐらへ着いた」という合図。
これ以上不都合が起きてほしくはないだろ?
僕たちの、この「パートタイム・ラヴァー(都合のいい関係)」に。
【解説】
合図はチェス盤の差し掛けだっていい。生存報告だってワンコールで十分だろ?
君が白のキングを置いたその盤面には、僕らを欺く「黒のキング」の影が、最初から冷たく揺れていたんだからね。
2. 明滅する暗号
If she isn't with me I'll blink the lights
To let you know tonight's the night
For me and you my part-time lover
【私訳】
もし僕を見張る「彼女(飼い主)」の目が逸れたら、部屋の明かりを明滅させて知らせるよ。
「今夜がその夜だ」ってね。
僕と君、僕たちの秘密の時間。
【解説】
あの踏切の警報機。揺れる鉄のコンテナと、漂白剤の匂いがする拷問室の裸電球。
チカチカと、僕らは世界を騙す光の合図を送り合う。
君の鋭い視線が暗闇を照らすその一瞬、僕は確かに存在している。
3. 太陽に背を向けた逃亡劇
We are undercover passion on the run
Chasing love up against the sun
We are strangers by day, lovers by night
Knowing it's so wrong, but feeling so right
【私訳】
僕たちは潜入中、逃亡中の情熱そのもの。
昇る太陽に背を向けて、愛を追いかけ、ロンドンの石畳を疾走する。
昼間は赤の他人としてすれ違い、夜になれば愛し合う共犯者になる。
これがどれほど狂っていて、致命的な間違いか分かっている。
だけど――これ以上の「正解」なんて、この世界のどこにもない。
【解説】
テムズにパトカーを沈め、世界を敵に回して、街角のパン屋のバターの香りに救いを求めるような、無様で愉快な逃亡劇。キティがヘリを爆破し、世界がどれだけ混沌に燃え盛ろうとも、君の冷たい指先が僕の肌に触れる瞬間、僕のシステムは一瞬でバグを起こして、それを「正解」だと錯覚してしまうんだ。
4. すれ違い
If I'm with friends and we should meet
Just pass me by, don't even speak
Know the word's "discreet" with part-time lovers
【私訳】
もし僕が同僚たち(ハートさんや、あの哀れな長官たち)といる時にすれ違っても、ただ通り過ぎてくれ。
声なんて絶対にかけないで。
「慎重に、目立たずに」
それが僕らみたいな、夜限りの関係に課せられた鉄則だから。
【解説】
……まあ、文字通り君に完璧に無視された時、僕はプライドをちょっと傷つけられたけれどね!
君のあの徹底した冷酷さは、たまに本当に憎らしくなるよ。
5. 身代わりの男
But if there's some emergency
Have a male friend to ask for me
So then she won't peek its really you my part-time lover
【私訳】
だけど、もし「本当の緊急事態」が起きたなら。
君の息がかかった男の友人を、僕の前に寄越してくれ。
そうすれば、あの「彼女」だって、君の仕掛けた罠には気づかない。
【解説】
例えば、あごひげのジョージなんてどうだい?
彼は僕のことが嫌いだったはずなのに、命をかけて君に僕の窮状を伝えてくれた。
意外と義侠心に富んだ奴だったんだ。
死んでしまったなんて悲しいよ。
◇◆◇◇◆◆◇◇◆
繰り返される逃亡劇
◇◆◇◇◆◆◇◇◆
6. お互い様の地獄
I've got something that I must tell
Last night someone rang our doorbell
And it was not you my part-time lover
And then a man called our exchange
But didn't want to leave his name
I guess that two can play the game
Of part-time lovers
You and me, part-time lovers
But, she and he, part-time lovers
【私訳】
だけど……君にどうしても言わなきゃいけないことがあるんだ。
昨日の夜、僕たちが作った完璧な世界のドアベルを鳴らした奴がいた。
そしてそれは、僕の愛しい君じゃなかった。
それから、僕らの回線に電話をかけてきた男がいたよ。
名前も名乗らずにね。
なるほど。こういう騙し合いのゲームは、二人だけで遊むものじゃないってわけさ。
僕と君だけじゃない。
僕を縛る「彼女」も、君を操ろうとする「彼」も、みんなこの不実なゲームに加わってきたんだから!
【解説】
ドアベルを鳴らしたのは、僕を捕まえたくてしょうがないICPOのハートさん。
名前も名乗らずに電話で話し合ったのはMr.マイクロフトだ。
スティービーの体験談みたいに、僕が君という死神に魂を半分売って、世界を騙すパートタイム・ラヴァーを気取っていたら、実はゲームの支配権はとっくに別の「影」たちにも握られていたわけだ。
灯台下暗しって、本当だね!
◇◇◇◇
【追記】サンダルウッドの香る盤上で
ねえ、シャーロック。僕にとっての「パートタイム・ラヴァー」は、間違いなく君だろう。
昼間は画家、或いはMI6の諜報員。
だけど夜になれば、君の冷たい指先が僕の肌をなぞり、僕を「完璧なシステム」から連れ出してくれる。
間違っていると知りながら、睡眠薬入りのワインを喜んで飲み干してしまうほど、僕の身体は君の異常な保護欲――いや、支配欲を「正しい」と受け入れていたんだ。
だけどさ。
僕はあのクローゼットの奥に見つけてしまったんだ。
サンダルウッドの香りが微かに残る、僕のものではない紺色のジャケットを。
"I guess that two can play the game">
(この不実なゲームは、二人だけのものじゃないらしい)
スティービー・ワンダーが体験し、そして僕たちに警告してくれた「最大の皮肉」を、僕たちは体験した。
僕が君との秘密のスリルに溺れている間に、君の部屋にはすでに別の「影」が入り込んでいたなんてね。
これじゃあ「マズいことになる連中」の筆頭は、他でもない僕じゃないか!
でも同時に、君がチェス盤の横にそっと残していった置き手紙の文面を、僕はずっと忘れられないでいる。
“It's your presence alone that gives this game meaning and makes it worth my time.”
(お前が対面に座っていたからこそ、この盤には価値がある)
やれやれ。これは愛の言葉として受け取っていいの?
君はロンドンそのものを巨大なチェス盤に見立てて、僕を踊らせて楽しんでいるだけじゃない?
……まあ、いいさ。
君が望むなら、新しい盤で新しいゲームを始めようじゃないか。
太陽はどうせ沈む。そしたら僕たちはまた、世界を騙す「恋人たち」に戻るのさ。






