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執筆者の写真Fata.シャーロック

あじさいの彼

更新日:1月15日



厚い雲に覆われて、空はどこまでも灰色をしていた。

六月になってからずっと、ずっと。

昨日も今日も雨が降る。延々と降り続く。きっと明日も明後日も。

晴れ間のない人生に疲れ果て、死に場所を探す「私」が出会ったのは、とても優しい「彼」でした。


絵師・ナルヒトさんとのコラボ作です。






 あじさいの彼



 厚い雲に覆われて、空はどこまでも灰色をしていた。六月になってからずっと、ずっと。  昨日も今日も雨が降る。延々と降り続く。きっと明日も明後日も。

 私は傘もささずにふらふらと、街をさまよっていた。  じっとりと水を含んだ髪や服が、肌に張り付いて気持ちが悪い。いつもなら嫌で嫌で仕方なく、シャワーを浴びる時を心待ちにするほどだったが、今日は違った。惨めさを感じれば感じるほど、心地が良くなった。

 私は靴も脱ぎ捨てて、破れたストッキングで水溜りを踏んで歩いた。

 雨よ、降れ……いっそのこと洪水でも起きて、全部が全部、流れて壊れてしまえばいい。

 私自身、晴れ間のない人生に疲れ切っていた。  恋人は去り、友人には裏切られた。親とは折り合えず、仕事はこなせず、夢は叶う気配もない。 こんなことが、一体いつまで続くのだろう?

 私は高いビルを探していた。 灰色の空にうんと近くて、私自身が雨粒になれるような、そんな屋上があると良い。

   ところが不意に背後から腕を取られ、歩くのを邪魔された。苛立ちながら振り返ると、色鮮やかなあじさいの花をバックに、なかなか整った顔立ちをしている、背の高い高校生くらいの男の子がいた。  彼は持っていた傘を、私の頭上に差し向けて来た。ビニールに雨が当たるポロンポロンという音がする。


イラスト/ナルヒトさん


「あの、寒くないですか?」と彼が言った。


 私は答えなかった。腹が立っていたし、口を聞くのも億劫だったのだ。  何も言わない私に、初めは笑顔を浮かべていた彼も、徐々に緊張しだした。

「えっと……」と私の腕を離し、少しおどおどしながら、「雨、凄いですよね」とどうでも良いことを言う。

 私はくるりと背を向け、歩き出した。 ところが驚くことに、彼は「だから、あの、嫌になりますよね!」と喋りながらついて来たのだ。

「雨が降るのは梅雨だからなんですけど、ちょっと降りすぎですよね! ぼ、僕は、野球部に入っているんですが、雨が降るとグラウンドもグッチャグチャになっちゃうんです。だから雨の日は、本当にうんざりします。泥だらけのユニフォームで帰ると母さんは怒るし……どうして僕が怒られなきゃいけないんですかね。理不尽ですよ」

 ああ、どうでもいい、うるさい。

 早く彼を振り切りたくて、ぐんぐん先へ行く私。

しかし、運悪く選んだ道は行き止まりだった。古びた中華屋の裏口が目の前にあったが、まさかそれを開けて進む訳にはいかない。

 溜め息を付きながら振り返ると、彼が少し困った顔で立っていた。

「大丈夫ですか? 結構濡れてますよ」 「放っといて。濡れたいから濡れてるの」

 私は無視をするのにも疲れ、思わずそう答えていた。

「えっと……じゃあ、靴も履きたくないから履いてないんですか?」 「少しは自分で考えたら?」 「じゃああの、裸足がお好きなんですね」 「違うわよ!」私はイライラと言い放った。 「え、ち、違うんですかっ?!」のけぞるように驚いた彼。

 その大袈裟とも言える反応に、私は「これではまるであまのじゃくだ」と気づいた。

 違う。でも違っていない。  私は自分が惨めだと思っていた。 思ったから、更に惨めな状況に身を置き、「世間が私を殺すのよ」という気持ちで、死のうとした。  でも、結局の所、私を殺そうとしているのは、世間ではなく私自身だ。

 黙っていると、彼は何故か謝って来た。

「すみません、僕は馬鹿なんですよ」 「えっ?」 「母さんも僕のことを『アンタの頭は空っぽのヤカンなの? もっともっと勉強しなさい!』って言います」 「……そうなの」 「でも本を見るだけで頭が痛くなっちゃうんで、したくても出来ないんですよ」 「……」 「それより、お腹空いてません? 何か温かいものでも食べませんか?」

 私は完全に彼のペースに飲まれてしまった。  気が付くと、近くのハンバーガーショップに連れて行かれていた。

「僕なら、裸足でも目立たないから」と、彼が靴を貸してくれたので、ずぶ濡れの私が店に入っても、店員は「酷い雨ですよね」と言っただけで変な顔はしなかった。  私と彼は屋根のあるテラス席に座り、雨を見ながら、火傷しそうに熱いポテトとハンバーガーを食べた。

「どうして君は、私に声をかけて来たの? しかも、あんなにしつこく」

 人をストーカーするのが趣味なわけ? 

 意地悪く私が聞くと、「え、いや、そんなつもりはなかったんですけど」と彼は視線をさまよわせた。

「えっと、凄い雨が降ってるのに、ずぶ濡れだったから、大丈夫かなって思って……あとは婆ちゃんの影響で、つい」と言った。 「どういう意味?」 「僕の婆ちゃんは、もう死んじゃったんですけど、雨が降るとよく言っていたんですよ。『いつか、雨なのに傘もなく、ずぶ濡れで歩いている人を見たら、そっと傘を差し掛けてあげるのよ』って」

 お婆ちゃん子だったらしく、彼は喋りながら微笑んでいた。

「婆ちゃんは、若い時にそうされたことがあって、嬉しかったみたいなんです。だから、僕にもそうしろと」 「そうなの」 「あと、当たり前ですけど、婆ちゃんは『雨はいつか止む』って言ってました。それと、『そんなに悪いものじゃなかったって、後で思えるようになるから』って言ってたな…… 。 まぁ、雨が降らないと、飲み水もなくなりますもんね! 悪いわけないですよ」

 彼に「そうね」と相槌を打ちながら、私は別のことを考えていた。

 きっと彼のお婆さんは、雨に人生を例えてそう言ったのだろう。  悪いことはいつか終わると。後でそんなに悪くはなかったと、そう思えるようになると。

  私の人生もそうなのだろうか?

 

 突然、彼が「あ!」と大きな声を上げた。

「見てください、ほら! 」 「どうしたの?」

 彼が指差す方向を見る。 いつの間にか雨は少し弱まり、空には、雲間から街へ伸びる虹があった。

「すっげえ! めちゃくちゃ久しぶり!!」

 私は声もなく空を仰ぐ。  何てことない、ただの虹だ。ただの光の屈折だ。  それなのに何故か、じんわりと目頭が熱くなった。

「虹が見れるなら、カメラも持って来ればよかったや」彼は言いながら立ち上がった。 「じゃあ、僕は行きますね。そろそろ電車の時間なんで」 「……うん」

 そうか、行ってしまうのか。  少しだけ寂しさを感じながら、私は借りていた靴を脱ごうとした。

 しかし、彼は「あ、それはいいです! お貸しします!」と手を振った。さらに、「いつか返して頂ければいいんで」と言いながら、私の手に傘を押し付ける。

「何言ってるの、逆に困るわよ!」と私は慌てた。 「お互い名前も住所も知らないじゃない。なのに、いつどこで返したら良いのよ!」 「大丈夫ですよ」彼は悪戯っぽく笑った。

「きっとその内に、また会えますんで」 「その内って……」

 私が呆気に取られているうちに、彼はくるりと背を向ける。

「じゃあ、また!」

 その背中が、瞬く間に遠くなった。後には、紫のあじさいが揺れる通りだけが残った。

 何よ……。  それじゃ、この傘と靴を返すまで、生きていなきゃいけないじゃない。

「まあ、いいか」と私は呟いた。  見事に一本取られてしまったと笑いながら、立ち上がった。

 まあ、いいか。  もう一度、君に会えるのなら。

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