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執筆者の写真Fata.シャーロック

フェイト・ルーレット

更新日:1月26日



ロンドンの不穏な霧を映すが如く冷めた瞳の探偵は、一人の男に危険なゲームを持ちかける。

「弾は一発、助かるチャンスは五回もある。たかがロシアン・ルーレットだ」

——どれほど足掻き逃れようとも、死すべき運命は変えられない。愚かな者に残された術は、自ら逃したように見えるチャンスを知って絶望することだけだ。





The Appointment in Samarra.



 汚れたグラスと紙屑転がる低い机の中央に、傷だらけのS&W.M10の回転式拳銃《リボルバー》が無造作に置かれている。その傍らには縮れた黒髪の男が一人、コートも手袋も取らぬまま、すり切れたカウチにだらしなく寝そべっていた。


 名をレイモンドという。ロンドンの不穏な霧を映すが如く冷めた瞳の探偵である。投げ出された長い両脚は、どうかすると部屋を圧迫している酒瓶の山を蹴飛ばしそうだった。

 彼は床から引き寄せた半月も前の新聞を読むでもなくめくっていたが、ふと手を止め、顔を上げた。


「おい、お前は『サマッラの約束』を知ってるか? バグダットの市場で偶然死神に出くわした男が、そいつから逃れようと砂漠の旅を始めるものの、死神はそもそもその先の『サマッラで会う約束だった』と言ったって話だ」


 低いがよく通る声だった。黒のサングラス越しに光った切れ長の目は、正面のソファの上で憔悴しきった男をひたと見据えている。


「い、いえ……あっしは」


 ソファの男は慌てて媚びた笑みを作り、大げさに首を振った。


「今初めて知りました。旦那は聡明ですねえ……。その話にゃ何か意味があるんですかい?」

「人間の寿命は決まっているってことかな。あるいはもっと大きく、『運命は変えられない』ってことか。男は『逃げなきゃ生きられたのに』と悔やんだろうが」

「ははあ……そんな深い意味が」

「それはそうと、もう五分待ったぞ。時間切れだ、プレイ・ボーイ」


 探偵レイモンドは気怠げにそう言って、机の上のリボルバーを指差した。

 見過ごそうにもままならない銀色の銃身は、夕陽を映して鋭く光り、見る者の瞳を射るようである。


「弾は一発、助かるチャンスは五回もある。腹を括ってやってみろ。たかがロシアン・ルーレットだ」

「い、いや、無理、無理ですって! あっしは死にたくない!」

「今言ったろ。寿命ってのは決まっているんだ」

「じゃあ旦那もやってみれば良いんだ!」


 それを聞くなりレイモンドはリボルバーを手に取って、ピタリ銃口を自らの耳の上に当てた。刹那、寸分のためらいなく引き金に指をかける。


 カチリ――。

 戦慄の一瞬が過ぎ、レイモンドはつまらなそうに肩をすくめた。


「良いのか? 一回分みすみすフイにしたぞ」

「だ、旦那は悪魔だ!」

「そうかな。仮にそうだとしても、その悪魔を呼び出したのはお前だよ」


 レイモンドは低く笑って泣き出す男に銃口を向けた。


「なあ、プレイ・ボーイ。顔と同じく頭も悪そうだが、まさか忘れちゃいないだろう? お前は脳タリンの刑事や泣き寝入りする人間が多いのを良いことに、二年で切り裂きジャックより多くの美女を殺しちまったんだ。その薄汚れた欲望を無理矢理ぶつけた挙げ句に」

「ち、違う! あっしは殺してない! あっしはその、犯しただけで、あいつらは勝手に死んだんだ!」

「解釈の違いというのは面白いな。――まぁいい。俺は遺族から依頼されてここにいる。誰一人救えない貧弱な正義とかいう奴の代わりにお前に罰を、いや絶望を与えてくれと」

「ご冗談を……!」

「俺がいつ冗談を言った? そのためだけに、お前が女を脅すのに使ったこの銃を、わざわざテムズに沈んでいた袋から持って来てやったんだ。ついでに中のペンチやナイフもここに並べてやろうか? 泣くな泣くな、お前が思うほど世の中甘くないんだ。どうやってこの袋を見つけたか、聞いたら腰を抜かすぜ。お前のせいでテムズに身投げした女が、袋と錘を繋いでいたロープに絡まって浮かんでたんだよ。もっともそれを知っているのは遺族と俺だけだが」

「で、でも、旦那は一体あっしをどうする気で!」

「そうだな、俺はあくまでも探偵であって殺し屋じゃない。爪を剥がすとか、指を落とすとか、そういう必要以上の痛みを与える趣味もない。そもそもお前のせいで刑務所に入るなんざ真っ平ごめんだ。だからルーレットの続きをやるだけだな。――そりゃ、お前がどうしても嫌だってんなら仕方なく爪剥がしに移るがね。もし一度やって死ななかったら解放しよう」 

「ほ、本当に」

「そう言っているだろう。俺はこれでも約束を破らない男だ」


 伸ばしたレイモンドの片手から震える男の手の中へ、銀の銃が流れて行く。

 男は何度もしゃくり上げ、止まらぬ涙と冷や汗に木製のグリップを握るのにも苦労しつつ銃口を額に寄せた。だが引き金を絞るその一瞬、魔が差したものらしい。突如顔を上げ、目を血走らせてカウチに寝そべったままのレイモンドに狙いを付けた。


「死ねえーーっ!!」



 カチリ、カチリ、カチリ、カチリ。

 

 一度目も二度目も三度目四度目も弾は出なかった。


 そして、


 カチリ。

 

 五度目も――



「そんな、」男は唖然としてリボルバーに目を落とした。

「弾は?! 弾は弾は?!」

「悪いな、最初っから入れてなかったんだよ。さて、ルール違反の野郎はどうしようか」


 レイモンドは忍び笑いを漏らしつつ、コートの内側から黒光りする拳銃を抜き出した。口径九ミリのベレッタ92――顎が外れそうなほど口を開けてぼうっと佇む男の前へ、その銃口がゆらりと動く。


「お前は、俺がこの部屋に入って死んだ女達の話をしただけで、自分の銃を抜き血相変えて撃って来た。実を言うと俺は臆病な人間でな、そういうのに弱いんだ。しかもお前は折り紙付きの犯罪者だから、引き金を引かれると同時につい条件反射でやっちまった。まさか弾が入っていないとは思わなかったんだ。後で刑事にそう言おう」

「な、何を……」

「正当防衛だったと」


 乾いた音が轟いた。


 ――どれほど抗い逃れようとも、死すべき者と死神は約束の地で出会うのだ。

 濁った色の血溜まりがトロリ床に垂れ落ちるまで、あと何秒もない。

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