ローズマリーの夢 Ⅰ
- Fata.シャーロック
- 2月26日
- 読了時間: 11分
更新日:2月27日

“拝啓、未来の旦那さま……”
それは運命の人を垣間見る、ローズマリーのおまじない。
政府の要人が狙撃され、大騒ぎになったバレンタイン。
家族との約束もフイになり落ち込んでいた十七歳の少女バジルは、伯母の勧めで不思議な夢に迷い込むが……。
運命とは救いだろうか、呪いだろうか?
甘く危険なもう一つのロンドン・ストーリー。
◆ロールケーキは焼けたのに
英国は五時になりましたよ――ビッグベンの鐘の音が私にはそんな風に聞こえる。まるで大きなのっぽのお爺さんがロンドンに住む私達を見下ろして、厳かに告げているような感じ。
私は今日の予定をつつがなく進められていることにふうっと安心して息をつき、ポチッとオーブンのスタートボタンを押した。ヴィーンと優しい機械音と共にガラス扉の向こう側がオレンジ色になって行く。窓の外の景色とは対照的なほど、夢も暖かみもある光景だわ。
私は今、卵と砂糖とココアパウダーもっさりのロールケーキ生地を作ったところ。初めての挑戦だったけど、大丈夫、母さんが残してくれたレシピ通りにやれたから。後はホイップクリームとフルーツを用意して、生地が焼けたら、たっぷり乗せてくるくる巻けば良い。ニホンの巻き寿司の要領でね。
「バジルちゃん、大丈夫?」
居間の方で、さっき買い物から帰ってきたばかりのリンダ伯母さんの声がした。
「うん。今ちょうど終わったの。生地をオーブンに入れたとこ」
「そうなの? 皆のために偉いわね」
うふふと笑いながら私は両手のミトンを外した。
私は十七歳の作家志望。ここイギリスで生まれ、個性派揃いのハート家の末席を陣取って以来、のびのびと――じゃないわね。かなりのインドア派に育ってる。
名前はバジル。綴りはもちろん B,A,S,I,L. 植物の方のバジルと同じよ。世間ではちょっと珍しい名前かも知れないけど、母さんが私を妊娠中にバジルの鉢の前で転んで破水したからとか、私の瞳がバジル色だったからとか、理由はまあ色々あるらしいわ。
私は現代っ子らしく、生地が焼けるまでの暇つぶしとスマホを取った。電源を入れると、ピコンピコンピコン。新しいメールが三件来たよとブザーが鳴る。
途端にお腹に重しを乗せられたような凄く嫌な感じになった。だって、我がハート一族は「便りがないのは良い知らせ」が基本スタイル。連絡がある時はつまり、「緊急事態」ってことになる。
私はきゅっと顔をしかめながら一件目のメールを開いた。これは八つ年上のロイズ姉さんからだわ。
◆◇◇◆
MY SISTER
ごめんなバジル。約束通り帰るつもりだったが、どうしても抜けられない。
いつも世話になってる店の親父がさ、今夜もアタシに歌ってくれって言うんだ。腑抜けだらけのこの時代にこそ、アタシの熱いロックが必要だってな。
マジでごめんなバジル。ずっと楽しみにしていてくれたのにな。この埋め合わせは必ずするからな。ロックにかけて誓うよ。
LOIZ HEART
◆◇◇◆
二件目のメールは私の六つ年上の、リンド兄さんからだ。
◆◆◇◇
妹へ
バジル わりーなー
オレ今夜も仕事だわ
帰れねーし帰してもらえねー
さっき編集長の靴舐めて頼んでみたけどダメだったわ☆
「死にたくなければ今夜中に新作一本描き上げろ」って言われちまってさ
すまねえ そういうことだ
恋のダイヤル一一〇番
◆◆◇◇
うーん、どうして姉さんも兄さんもこんなに個性的なのかしら。どっちもかなーり癖のあるメッセージだわ。
ちょっと注釈すると、ロイズ姉さんはアマチュアなのに凄い人気のあるロックバンド「WONDER LAND」のリーダーなの。炎のような赤髪を振り乱して、一曲一曲、命を賭けて歌ってる。だから姉さんのファンは口を揃えて言う。「これこそが魂の音楽だ」って。
姉さんもそれを誇りに思っているから、「歌ってくれ」その一言で何処にだって行くのだ。マチュピチュの山の上だって。
リンド兄さんの方はエッチな作品ばかり描いてる漫画家。黙っていればイケメンなのに、口を開けば変態仮面だ。漫画は本人もびっくりするほど売れてるらしくて、なかなか休みをもらえない。いいえ、お休みどころか、三百六十五日二十四時間、出版社に監禁されてるみたいになっている。とっくに人間の限界を超えてると思う。でも兄さんは美人の編集長さんが好きで好きで仕方がない気持ちを生命力にしているらしい。
とても忙しい二人だけど、本当なら今夜、久しぶりに顔を合わせられるはずだった。
夕方六時にここリンダ伯母さんのアパートで待ち合わせて、レストランにご飯を食べに行く――たったそれだけのことだけど、二ヶ月も前から楽しみにしていた。だって、今日はバレンタインなのよ。家族で愛を高め会うとても大切な一日なのに。
私は溜め息をつく。
今から七年前、私が十才の時に母さんが天使になってしまってから、我が家はいつもバラバラだ。
愛に形がないのは分かっているけれど、こうも見えないと不安になるわ。せっかく、せっかく……母さんにも天国から参加してもらうつもりで、団らんの象徴を作ったのに。
……そういえば、まだ父さんのメールを見てなかったわ。
私はもう一度溜め息をついて、最後のメールを開いた。
◆◇◇◆
バジルへ
急な仕事が入った。
悪いが今夜の食事はお前とロイズ達だけで楽しんでくれ。
だが外食はダメだ。街に出るのは危険かも知れない。
戸締まりをしっかりして、狭いだろうが皆でリンダのアパートにいるようにしろ。
ロイズ達にもそう伝えておいてくれ。
父さんより
P.S.
ケーキは俺の分もしっかり残しておいてくれよ。
リンドが取り過ぎないように注意してくれ。
◆◇◇◆
ここで胸騒ぎは最高潮に達する。私は急いでキッチンを出、TVの電源をONにした。
何故って、父さんは世界屈指のICPO特別捜査官。自分の赤髪より真っ赤な顔をして凶悪犯罪を追いかける、鬼のマーカス・ハートなのだ。急な仕事が入った――この言葉の意味はほとんどの場合、「国際的な事件が発生した」ということになる。今頃はニュースで放映されているはず。
画面が明るくなると案の定、『国会議事堂《ウェストミンスター・パレス》より中継です』ともふもふの防寒具を着た男性アナウンサーが白い息を吐きながら喋っていた。
『フォーブス・バレリー大佐は今日午後三時頃、ここから約二百メートル離れた地点――ビッグベンの真下を通行中に狙撃されたとのことです。近くにいた観光客が通報し、救急隊員が駆け付けましたがその場で死亡が確認されました。警察は現在大規模な交通規制を行い、慎重に捜査を続けています。もし不審な人物を見かけたら……』
事態は想像以上に深刻だった。
『大規模な交通規制を行っている』ということは、多分道路だけじゃない、駅も空港も止められているってことだわ。
狙撃された人はもちろん気の毒だけど、バレンタインのちょっとした贅沢を楽しみに家を出た人も可哀想。もうボチボチ暗くなって来るし、こんなに寒い中でもし「一人一人手荷物や身体検査を受けてください。それが済むまで帰ってはいけません」なんてことになったらどうするんだろう。
今はどの局でも同じような放送をしていた。父さんが映るかしらと思ってしばらく見ていたけれど、よくよく考えると父さんはマスメディアを何より嫌う。都合良く事実をねじ曲げて視聴者の誤誘導ばかりする彼らのカメラになんか絶対映りたくないって、前に言ってたっけ。
私はブツンとTVを消した。辺りは急に静かになって、時計のカチコチいう音だけが聞こえるようになった。
こうなってみると、姉さんや兄さんがそれぞれの用事で帰れないというのは神様の思し召しなのかも知れない。空港や駅で何時間も拘束されないだけ幸運だわ。それでなくともここリンダ伯母さんのアパートは事件現場にほど近い場所にあるんだし。
でも、こんな時間になってから仕事に駆り出された父さんは大変だ。報われるかどうかも分からない苦労をこれから一生懸命しないといけない。いつ帰ってこられるのかな、犯人が早く捕まると良いけど……。
「ねえ、バジルちゃん」
一緒にTVを見ていた伯母さんが言った。
「ロールケーキはどうなったの?」
「あっ…忘れてた!」
私はハッと息を呑み、キッチンに駆け戻った。
酷いことに生地はまだオーブンに入れっ放し。一応ちゃんと焼けたみたいだけど、あーあ、本当はすぐに出して型ごと二十センチの高さから落とさなきゃいけなかったのに、両端に皺が寄って縮んじゃってるわ。クリームは気合いで巻くしかない。
でもねえ……。私はまた溜め息をつく。
はっきり言って、今は生地の完成度よりその後のことが心配。
見栄えのしないバジル・クオリティ・ケーキでも皆は気にせず「美味しい」って言ってくれるだろうけど、あんまり時間が経ってケーキの色までバジル色になるようなことになったら、それはもう誰にも食べられないから。困ったわ、姉さんにも兄さんにも父さんにもいつ会えるか分からないのに……。
ラップに包んで冷凍庫に入れようかしらと考えていたら、伯母さんが言った。
「ねえ、バジルちゃん。皆の分のケーキはまた今度、改めて焼きましょう。今日作ったのは今日明日で食べてしまうのが一番。やっぱりほら、鮮度が命だから」
「ええーー……」
それはそれで困る。皆が充分に食べられるようにって生地は大きく焼いていたもの。大分縮んじゃったけど。
それに、生クリームなんてカロリーの化身じゃない。美味しいけど本質的には女の子の敵。
「何も私と貴方だけで片付けましょうとは言ってないわ」
伯母さんは言い、急にパチンとウィンクをした。
「明日お友達にでも配ったらどうかしら。マーカスには私が上手いこと言ってあげるから、ね。せっかくのバレンタインよ。バジルちゃんにも気になる男の子の一人くらいいたっておかしくないんだから」
「伯母さん!」私はつい吹き出してしまった。
でも、ざーんねんなことに、私に気になる男の子なんていないの。
そもそもの話、私は色々あって学校に行っていないから、誰かと親しくなるような機会そのものがない。彼氏? 同性の友人すらいないのに、とても無理よ。父さんがうるさく邪魔するし。
あ……でも、図書館でたまに会う男の子とはちょっと仲良くなってみたいんだった。ロールケーキをあげたいとしたら彼ぐらいかな。
歳も背丈も私と同じくらいな人で、髪は明るい栗色で、ちょっと長めのストレートボブ。一度、私が落とした本を拾ってくれたんだけど、目がとっても優しかったの。
そういえばその時名前も聞いたような気がする……何だっけ、リーフ? リック? ええと、ハリーだったかしら? ダメだわ、ちょっと変わった名前だったっていうのは覚えてるんだけど。
明日図書館に行ったら会えるかしら? でもTVが『交通規制云々』と言っている時に普通出かけるかな。出かけないだろうな。
「伯母さん、やっぱり……」
ケーキはお隣さん達に配っちゃおうと言いかけた時、突然部屋の明かりが消えた。キッチンの隅の冷蔵庫もヴーンと唸るのを止めて沈黙している。
「え、え?」
カーテンを捲ってみると、街はまるで沼の底に落ちてしまったかのように真っ暗だった。信号やネオンの明かりさえ見えない。
「伯母さん! 停電よ!」
「あら、そうね」
驚いた様子もない声がして、急に目の前がぼうっと明るくなった。
長い火の付いた蝋燭を持って、伯母さんが立っている。
「私の亡くなったひいおばあさんは、とても博識な人でね。貴方と同じ年の頃、色々なことを教えてもらったの。料理にお菓子に編み物に、花言葉とおまじない」
「おまじない?」
「ええ、今日という日に相応しい、とっても素敵なおまじないがあるのよ」
伯母さんは蝋燭を持っていない方の手に持っていた何かを、私の手の中に置いた。
さわり心地はガサガサ、でもちょっぴり湿っている植物。指先でいじればいじるほど、清涼感のある香りが立ち上る。
蝋燭の炎に浮かび上がったのは、薄紫の小さな花が点々と咲いている、一振りのローズマリーの枝だった。
「今夜貴方が眠る時、これを枕の下に置くのよ。それから目を閉じて、胸の上で手を組みながらおまじないを唱えるの」
――――拝啓 未来の旦那さま
私をお側に連れてって
貴方のお声にお姿を
今宵 私にひと目だけ――――
「もしかして……運命の人に会うおまじないなの?」
「そうよ」
ただし、と伯母さんは言う。
乙女の願いが叶うのは一度きり。もし思うような結果が得られなかったとしても、二度目からは意味がない。
そして、何があっても、決して声を出してはいけない。
一度でも声を出すと、せっかくの内容を全て忘れてしまうんだって。そしたら、もし運命の相手が意に染まない人だったとしても、抗う自由は失われる。
伯母さんは悪戯っぽく微笑んだ。
「やってみるでしょ?」
蝋燭の炎が揺らめいて、壁に伸びた数多の影が私を手招きしているように見えた。こんなに素敵な話を聞いた後で尻込みをするとしたら、それはバジル・ハートじゃない。
「ええ、伯母さん。もちろんよ」
私はそれからの数時間を夢見心地で過ごし、夕食もそこそこにベッドに潜り込んだ。ローズマリーの枝を持って。
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