翳りゆく部屋
更新日:1月15日
「俺は穏やかな百年など望まない。百年分の一瞬があればいい。のちの日々が死ぬくらいなら——」 凍える僕を振り返りもせず、探偵は雨を見つめている。もう戻らぬ人を思いながら。
A man never knows how to say goodbye.
“どうして君なんだ”
薄紙に並んだ文字の中で、探偵が泣いていた。彼は今しがた、長年来の友であり、数々の事件の黒幕でもあった男を見送った所だった。轟々と流れる滝……渦巻く水と沸き立つ泡の恐ろしく深い谷の底へ。
友が罪を犯したのは、その魂を歪ませることすら厭わずに探偵の望むものを差し出そうとしたためだった。そうと気付いた探偵が身を投げる彼を止めなかったのは、友としてその思いを受け止めたためだった。
そして一人残されて、探偵は泣いている。気のふれた愛が滲む文字の中で……
・
「俺なら後を追う」
すれ違いざま肩越しに本を覗き込んだ僕の探偵は、昨日からさめざめと降り続く雨の音にかき消されそうなほど小さな声でそう言った。そしてそれっきり黙り込んでいる。
僕は振り返ったが、手元の灯りだけでは窓際に向かう探偵の表情はよく見えなかった。目を凝らそうにも暗すぎる。折から吹き出した風と連れ立って夜が街を覆い始めている。
「何故ですか」
問いかけても無駄なことを、僕は問う。
ただ沈黙が苦しかった。知らぬ間に肌は粟立ち、本を持つ手は震えていた。
「簡単なことだ」探偵は俯き、ひしゃげた煙草に火を点けた。
「幕は降りた。それ以上の未来はない」
「そんな……僕はそうは思いません」
残された探偵には戻る場所がある。
悪に身を委ねた友の思い出と、無知であった自身の罪を背負いながら、それでも生きて行かなければいけない。
それにきっと、探偵を待つ人もいるはずだ。助けを必要とする人が。
「お前さんには分かるまい」
探偵は紫煙を吐きながら、ガタガタと音を立て古い窓を開けた。いっそ突き抜けるほどに空が青かったあの日、向かいのビルから飛んで来た一発の凶弾でひび割れたその窓を。雨が静かに吹き込んで来る。
「俺は穏やかな百年など望まない。百年分の一瞬があればいい」探偵は呟いた。
「男の存在がそれまでの自分の全てだったとその時気づいていながら、何を迷うことがある? 何が正しいか、どう行動すべきか、そんなことはどうでもいい。後の日々が死ぬくらいなら——」
僕は言葉もなく探偵の背中を見つめていた。
探偵は多分、闇に沈む街ではなく、雨でもなく、全てを透かしてあの人を見ている。よく言い合い殴り合い、それでも理解し合っていた、ただ一人の親友と呼べる人の面影を——。そして、卓越した頭脳を持ちながらも、ボタンを掛け違えたかのようなほんの少しのタイミングの差異で、その人の死に介入出来なかったことを思い出している。
翳りゆくこの部屋で、探偵は変わってしまった。その髪や瞳は色を失くし、無愛想な振る舞いの影に隠れていた暖かい心も、今は芯から冷えてしまっている。あのゆるゆると床に広がった生温いワイン色の血溜まりが、世界の色と温度を残酷に探偵から奪い去ってしまったのだ。
探偵は僕のそばにいてくれるが、それは僕を愛しているからではなく、僕が他に行き場のない子供だからという理由に過ぎない。もしも僕がこの部屋を出て行ったなら……
部屋の寒さに手が凍え、僕はバサリと本を落とした。
あ、と声を上げても探偵は振り返りもせず、薄闇の中で濡れながら、ただ雨を見つめていた。火の消えた煙草を口に咥えたままで。
探偵はきっと、あの人を救えなかったこと以上に、共に死ねなかったことを悔やんでいる。
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