ローズマリーの夢 Ⅲ
更新日:2月27日

“拝啓、未来の旦那さま……”
それは運命の人を垣間見る、ローズマリーのおまじない。
政府の要人が狙撃され、大騒ぎになったバレンタイン。
家族との約束もフイになり落ち込んでいた十七歳の少女バジルは、伯母の勧めで不思議な夢に迷い込むが……。
運命とは救いだろうか、呪いだろうか?
甘く危険なもう一つのロンドン・ストーリー。
◆夢と現に挟まれて
足裏を幽かに揺らがせて、ビッグベンの鐘が鳴っている。
気がつくと、私は揺り椅子の上に座っていた。
いつも通りの天井、いつも通りの伯母さんの部屋だ。開いたカーテンの向こうから朝の光が差し込んでいる。私は頭をふりふり立ち上がった。
「起きたかーーっ眠り姫ーー!!」
驚いて振り返ると、そこにはなんと、両手を拡声器みたいにして叫ぶリンド兄さんがいた。お腹の真ん中に目玉焼きのプリントがある変なポロシャツが妙に似合っている。
その横には、ロイズ姉さんもいた。真冬だというのに黒いタンクトップ姿で、スルメを囓りながら難しい顔をして立っていた。
「大丈夫か、バジル。揺さぶっても起きねえし、心配したよ」
私は、まだぼんやりとした頭のまま、二人を見上げる。
「……兄さん? 姉さん? 帰って来れないんじゃなかったの?」
「いや、まあそうなんだけどな」
兄さんは半分笑いながら言った。
「かわいい妹の目と鼻の先でオッサンが殺されたんだぜ? もううかうかしてられねえって」
「そうそう。アタシだけならまだしも、こいつも親父も帰れねえとか言いやがるしなー」
姉さんは大股で近付いて来ると、私の頭を優しく撫でてくれた。
「でも……仕事休んじゃって大丈夫だったの?」
「アタシ?『今まで散々歌ってやったろうが! 今日ぐらいおめーらが自分に自分で歌いやがれ』ってギター投げて来たから大丈夫」
「SMの女王みてーだな」兄さんが呟いた。
「そういうお前もよく休めたな。監禁されてたんじゃなかったのか?」と姉さん。
「俺? 俺はねー、『監禁するほど愛してるなら、キスぐらいしてくださいよ!!』って編集長に言ってやったの。そしたら秒で叩き出されたぜ☆」
「キモ」
部屋の空気は暖かく、キッチンからは甘い香りが漂って来る。コレは何の香りかしら?
瞬間、雷に撃たれたみたいなショックが走った。
「ケーキ!」
そうよ、ケーキ!
私、まだ生地をオーブンから出していないんじゃない?!
キッチンに走って行くと、「落ち着けー、バジル」兄さんがリビングから追いかけて来た。
「ケーキは俺たちが作っといたからノープロブレム」
「そうなの?!」
「ああ。見た目は良くねえけど、どうせ腹ん中でこなれるしな」
兄さんは冷蔵庫を開けて「じゃーん」と言った。
そこに置かれたロールケーキは、確かにごわごわでデコボコしていたけど(七十%くらい私のせいだわ)、たっぷりのホイップクリームに沢山のフルーツが彩りよく盛り付けられていて、とても素敵だった。まるで昔、母さんが作ってくれたケーキみたいに。
「兄さん……ありがとう!」
「お前こそな。こりゃおふくろの味の完全再現だぜ。……親父いねーけど、いいよな。俺達で食っちまおう」
兄さんはナイフを取り、ケーキを切り分け始めた。
でもその時、玄関のドアが開く大きな音が聞こえた。
「おーい、バジルいるかー?」
低く、少し心配そうな声が響く。
雪に濡れた上着を脱ぎながら、父さんが部屋に入って来た。
私は……
ふいに激情に駆られ、ボサボサ頭の父さんに抱き付いた。
どうしてだかは分からないけれど、父さんが今ここにいるということが無性に嬉しかった。ぎゅっと顔を埋めた父さんの胸は、とても暖かかくて、心の底からホッとする。
「お、おいおいおいおい、どうしたんだ? 何で泣く?」
「……え」
気が付くと私はぼろぼろと涙を流していた。びっくりしたけれど、止められない。
「ヒュー、凄え熱烈な歓迎ぶりだな。良かったな、親父」
姉さんはスルメを噛み噛み、私達を冷やかした。
「ロイズか。お前も帰ってたんだな」
「まあね、バジルが心配で。それで、親父の仕事はどうなの?」
父さんは少し疲れた顔で笑った。
「……思いのほか早く片付きそうだ」
「へえ、大事件の割りに珍しいじゃん」
「午前一時にタレコミがあったんだよ。リッツの705号室に、事件関係者の女がいるってな」
父さんの腕の中で、私は思わず息を呑んだ。胸の鼓動が早くなる。
「捕まえたんか?!」
「おう。大騒ぎだったが確保したよ。これから芋づる式に何人か引き上げられそうだ。――それより問題は下手人だな。ICPOのブラックリストに、狙撃の天才でレナードという男がいるんだが……」
父さんと姉さんの会話を聞きながら、私は微かに震えていた。
リッツの705号室――今初めて聞いた場所じゃない。以前何処かで耳にした。
ふいに、幾つかの情景がフラッシュバックする。
ひび割れだらけの廃工。金髪の女性。
そして――金属の音。心まで溶けて行くような、闇。
決して想像の産物ではない。それらを私は確かに見た。
でも、一体何処で?
考えれば考えるほど、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
私は床にしゃがみ込んだ。
「バジル、どうした。顔色が悪いぞ」
「熱でもあんの?」
父さんと姉さんはオロオロとして、私の顔を覗き込んだ。
「ケーキ切ったどー! ……げ、親父いたのかよ」
お盆を持って兄さんが現れても、誰も返事をしなかった。
「……ねえ、伯母さんは何処にいるの?」
自分でも驚くほど声が掠れていた。
そう、部屋の何処を見回してもリンダ伯母さんの姿がない。キッチンにもいなかった。
「リンダは今病院にいる。昨日スーパーで検問にあったんだが、順番を待っている内に体調を崩しちまったそうだ」
丸一日お前を一人にして悪かった、と父さんは言う。
でも、そんなはずはない。
私は冷や汗が背筋を伝って行くのを感じた。
「でも……父さん。私は昨日の夜、伯母さんと一緒にいたのよ」
「何だって?」
「嘘じゃないの。それで何か……大切なことを教えてもらったんだけど……」
頭が重かった。水面に映る月のように、ゆらゆらと記憶が揺蕩っている。
確かに私は寝ていたけれど、それならいつ寝たのだろう? 何処までが夢で何処までが現? 霧の中の影のように全てが曖昧で、分からない。一番大切な何かを忘れているのに、もう思い出せない。
“拝啓、未来の……”
歌声が聞こえた。
熱い痛みを覚えて振り返ると、私が寝ていた椅子の下に、乾いたローズマリーの枝が二つに折れて落ちていた。
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