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執筆者の写真Fata.シャーロック

弾痕とホットチョコレート Ⅱ

更新日:11月7日







 ◆物騒なバレンタイン



 そこで穴を塞ぐことは諦め、僕は次なる手段に出た。

 まずホームセンターに行って、DIY用の機材を揃えた。そして穴のバリ――壁紙の焼け焦げた部分や千切れたり裂けたりした部分――をそぎ落として綺麗に削り、整えた。ついでに壁をペンキで塗り直した。とにかくも「Y・V」が弾痕ではなく芸術作品に見えるようにした。そしてその周りには名実共に僕のミューズであるユウミさんのスケッチ画を飾り、アンティークショップで見つけた感じの良い陶製の花瓶を置いた。この花瓶には、新鮮な花を毎日花屋で買って生けることにした。


 ああ、何て素晴らしい祭壇だ。見ているだけで心が安らぐ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――と思ったのは最初の一分だけ。僕の心の平安は瞬く間に怒りによって焼き尽くされた。


 だってさ、どうして鏡文字なんだ。僕はシャーロックの何千倍もユウミさんを愛しているのに、どうしてあいつが正位置のイニシャルを眺めて僕が鏡文字なんだ。幾ら対象文字でも、「Y・V」と「V・Y」じゃ像と蟻ぐらいの違いがあるぞ。こんな侮辱は許せない。


 僕は箱にしまったばかりの工具を乱暴に取り出し、全ての弾痕を削って広げることにした。

 これはなかなか根気の要る作業だったけれども、ユウミさんがおやつに作ってくれたサンドイッチを囓りながら頑張った。二時間後には全ての穴が元の三倍くらいサイズアップした。


 ようよう満足して穴に顔を近づけると、シャーロックが肘掛け椅子の上で船を漕いでいるのが見えた。目の前のテーブルには天板一杯にロンドンの地図と十五世紀以前の南ヨーロッパの地質調査に関する論文が広げてある。そんなもの読んでるから眠くなるんだよ。


 僕はすぐさまベッドの下に潜り込み、そこの床板を外して、コンクリートと鉄筋の隙間から自分の仕事道具が詰まったオリーブ色のトランク――映画の007が使うような小道具セットを取り出した。そしてカーボン製の羽が付いた小さな矢に、MI6特製の像も倒れる猛毒を塗りたくり、丸めた雑誌の輪の中に納めた。それをどうしたのかって? もちろん、シャーロックの首めがけて吹いたのさ。


 ところが、奴は眠っていた癖に俊敏で、手元にあった電話帳を顔の横で一振り。目も開けないのに毒矢をはたき落としやがった。そして二秒後には返却して来た。


 僕はその後もボウガンを仕掛けたり、近所で捕まえてきたマムシを夜な夜な穴に通したりして嫌がらせを続けたけど、ボウガンはあっという間に壊されるし、マムシ君はシャーロックを噛まないどころか僕の部屋へ自主的に帰って来るしで止めてしまった。

 とは言え、マムシに気付いた時にはシャーロックも相当焦ったらしく、部屋の中で乗馬鞭を狂ったように振り回していた。後で息切れしながら僕に言った。


「おい、いい加減にしろ」

「何故」と僕は答えてやった。


 だけど、やれやれ……。部屋に銃弾を撃ち込まれても僕が生きているように、奴もなかなかしぶとい。

 仕方がないのでそれからは大分レベルを下げ、部屋の掃除をして出たホコリやシャーロックの死相のイメージ画なんかを毎日穴に放り込むことで妥協することにした。

 ゴミなら奴は返却してこないし――多分部屋を綺麗にするという概念がないんだろうな――こちらにとっても都合が良かった。ここは三階、大きいゴミ箱は一階にしかないからね。





 そうこうする内に英国の年は明ける。壁の問題も仕事の問題も何一つ解決しないのに、二月になった。時節は甘いバレンタイン。


 他の国はどうか知らないけども、我が国のバレンタインは別に恋人たちだけのものじゃない。

 立ち並ぶ店のショーウィンドーにロマンティックなデザインの箱が並び始めると、皆自分の財布事情に応じてあちこちにチョコレートをばらまく。家族や友人、親戚、隣人、同僚、生徒、恩師たちへ。愛とカカオを結びつける一日なんてお菓子会社の陰謀に違いないけども、まあ悪くはないね。

 後は高級ディナーを予約したり、ぐるぐる回るロンドン・アイの夜景が売りのホテルを取ったりする。

 もっとミステリアスに、「○○さんへ 貴方を愛する者より」――そんな風にわざと自分の名をぼかしたラブレターを贈る人もいる。贈られた方は「誰が私を好いているのかしら? 駅で会うあの人? それとも取引先のあの人?」なんてあれこれ想像して楽しいだろう。


 ま、今年は『御社のチョコレートに毒を混ぜた。止めて欲しければ三百万ドル払え』だのなんだのと企業を脅迫するアホ集団もいたりして浮かれ騒ぎに水を差すようだけども、僕の見たところでは警察とシャーロックが忙しくなっただけだ。


 僕が朝起きると大抵奴は下宿を出た後で、ディナーの時間まで帰らなかった。そしてその時にはもう髪も服もそぼ濡れて、かなり酷い有様だった。このところ雪続きだからね、ご苦労なこった。


 それでも、僕はシャーロックが羨ましかった。

 僕にも何か心乱すものがあればいいのにな――MI6の仕事以外で。あれはもう、彼らが僕の目の前にやって来るんでもない限り放っておくことにした。特に期限も切られてないし。

 何かこう、踊り出したくなるような楽しい刺激ってないかな。水着を着たユウミさんとか水着を脱いだユウミさんとか……。恋人どころか家族も友人も良き隣人もいない独り者に、バレンタインなんてイベントは酷だと思う。


 ――そりゃユウミさんは「今日は三世紀のローマで殉教した聖バレンタインの記念日ですね」と言って、ディナーの後に美味しいココアムースやチョコレートクリームたっぷりのオレンジケーキを振る舞ってくれたんだけどね。それは僕にしてみたら虚しいんだよ。食べたのは僕だけじゃないからさ。マフィン君とかシャーロックとかも彼女の下宿の住人としてその場にいたわけで。

 そして僕はマフィン君やシャーロックを友人(または良き隣人)として認めていないからね。


 僕はユウミさんに小さなダイヤがついたネックレスをプレゼントしたけど、未だにこの気持ちを分かってもらえてない。それどころかユウミさんは、顔を合わせる度に「こんな高価な物は頂けません…」と返そうとして来る。

 彼女は元が修道女だから仕方がないんだろうけどさ、あんまり疎すぎる。きっとネットで「ネックレス 贈る 意味」って検索することもないんだろうな。

 

 しかも彼女には、シャーロックやマフィン君までもがそれぞれブレスレットやブローチを贈っていたらしい。

 特にマフィン君には腹が立った。彼女にブローチを贈ることの意味は「貴方の一番側にいたい、貴方のハートにぶら下がらせてください」だからね。図々しいな。



 あーあ、ユウミさん……。おかげで僕の心は告白する前から玉砕している。

 おかしいなあ、僕はそこそこ背も高い。シンプルな紺のコートをふわりと羽織り、さらさらのプラチナブロンドを東の風に靡かせれば「とっても素敵な青い瞳のロビンさま」と、裏社会の蛮族やどうでもいい女の子たちからは映画スターと同じくらいもてはやされる男なのに。

 

 僕は溜め息をついて、昼に外へ画材を買うのに着て行ったコートのポケットをひっくり返した。

 ちょっと道を歩いていただけなのに信じられないけど、隣にいた男を突き飛ばして、彼にあげるはずだったらしいチョコを「まあ、画家のロビンさん!私、貴方のファンですの」とくれた老婦人もいたっけ。

 それはもう数えるのも面倒なくらい沢山の箱や封筒が、ボロボロとテーブルにこぼれ落ちる。


 さあ、これはどうしたもんか。


 僕を慕う女性は激しい性格であることが多い。僕とあの世で結ばれようってのか、手紙ならカミソリが、お菓子なら青酸カリが、時計やアクセサリーなら盗聴器やGPSが、約六十%の割合で混入している。

 酷い時には、亜熱帯地方の猛毒蜘蛛が何気ない感じでビスケットにサンドされていた。僕は二枚重ねのビスケットは必ず剥がして食べる質なので助かったけれども、レモンクリームの中でもがく蜘蛛は結構トラウマものだった。今回もらったお菓子も正直怖くて食べられない。


 僕はすっかりお馴染みの弾痕を見上げた。三秒後にはそこに、手紙やお菓子や時計やらを箱ごと全部押し込んだ。



 


 シャーロックがそれをどう処理したのかは知らない。返却はされなかったから、捨てたか? 食べたか? それとも研究材料にでもしたのか?

 まあどうでもいいことだ。この壁穴は深淵のようなもので、覗き込めばまたあちらからも覗き返される。


 ただシャーロックは他のゴミとは違い、今回の贈り物のことはちゃんと認識していたらしい。

 翌月、つまり三月十四日の朝、僕が目覚めると、弾痕鏡文字「V・Y」のすぐ下に設置した例の祭壇に金のリボンがくるくると巻き付いた黒い小箱が置いてあったんだ。


 奴が好きな国ニホンでは、バレンタインのちょうど一ヶ月後を「ホワイトデー」と呼んでバレンタインにもらった物のお返しをするらしい。それに習ったんだろうけど、まあ思ってもみなかったことだった。シャーロックは今、表の活動の方――例の毒入りチョコレート事件で手一杯な様子だったからね。


 その件について、数日前にTVで聞いた話はなかなか面白かった。

『御社の商品に毒を入れた』――そんな風評被害で会社を潰されちゃたまらんと思ったのだろう、実際に店頭で毒入り商品が発見されてからは企業も素直に支払いに応じ、代表者が組織の指示通り三百万ドルを鞄に詰めてパディントン駅から快速電車に乗った。

 シャーロックや警察は金が駅で受け渡されると考えて彼と同じ電車に乗り、その電車をヘリで追い、更にはあちらこちらの駅に警官を待機させるなどして警備を固めていたようなのだけど、敵は一枚上手だったようだ。列車が森の中にさしかかるや、代表者に『鞄を投げろ』と指示し――それでThe End. 真相も鞄の行方も闇の中。


 翌日の新聞にはでかでかと「名探偵だって失敗する」と書かれていたっけ。僕はそれを見て笑った覚えがある。

 マフィン君はね、優しいから「ホームズさん、気を落とさないでくださいね。犯人はきっと捕まりますよ」なんて言ってあげてたけど、そんな心配をしてやる必要はないと思うね。彼は失敗したことなんてないし。


 それはともかく、厄介払いをしたくて押し込んだゴミに丁重な返礼をされるのは何だかむず痒かったから、僕は身支度をして下宿を出、午前中はずっと街で過ごした。

 朝ご飯は屋台のフィッシュ&チップスで済ませ、バスを使わずにセント・ポール寺院近辺にある大型ショッピングセンターに出向いた。

 せっかくなのでシャーロックの分だけとは言わず、下宿の住人全員が満足に食べられる量のチョコレートと適当な包装紙を買った。何事も手を付けるからには本気を出すっていうのが僕のモットー。

 下宿に戻ると台所を借りて、ネットのレシピを見ながら大きめのトリュフチョコを作った。でもそれだけだとつまらないので、その内数個にはお隣の殺し屋様専用に、特別なアレンジを加えた。







 六時を回る頃になって、ようやくチョコは完成した。

 僕はそれを丁重に箱に詰めて飾り付けし、穴が小さいんで箱が歪んでしまうけど、構わずシャーロックの部屋へぐいぐい押し込んでおいた。これで任務完了。

 でもユウミさんにあげる時はもちろんもっと丁寧に、謹んで手渡しした。


「まあ、ロビンさん! 美味しそうなチョコレートですね。大切に頂きますわ」


 風にそよぐ黄金の髪。夜明けに降る雨のように優しい紫色の瞳。滑らかな肌。チェリーの如く瑞々しい唇。

 彼女の笑顔の美しさに当てられてしまい、僕は粋な返答の一つも出来ず退散してしまった。後で「ああディナーにお誘いすれば良かった」と思いついたんだけども――今日は長い一週間の中で唯一ユウミさんが下宿人たちの世話から解放される日だから――言い出す前にユウミさんは教会のお手伝いに行ってしまった。今夜は朝まで帰らないらしい。


 おかげで、マフィン君にチョコを渡す時にはどうしようもなく気分が悪かった。

 でもマフィン君は僕が箱をブン投げても子犬のように尻尾を振って(ホントに彼はペットにしか見えない)キャッチし、声を弾ませた。


「わあ、ロビンさん! これは何ですか?!」

「チョコ。あげるよ」

「良いんですか?! ありがとうございます!」


 その時ふと思いついて、僕はシャーロックからもらった黒い小箱をポケットから取り出した。


「ねえ、マフィン君。もしかして君もさ、シャーロックにこういうのをもらってないかい?」

「え?」マフィン君は一瞬きょとんと箱を見つめ、

「あ、はい! 頂きました! 今朝、ちょうどそれとそっくりなのを」

「中身は何だった?」

「チョコですよ! 濃い赤色だったので、多分イチゴ味です」

「多分?」

「いえ、違うかも知れません。頂いたのが朝だったので、中を見ただけでまだ食べていないんですよ」マフィン君ははにかんだように笑った。

「後で……夜ご飯の後にでもと思って」


 そっかそっかと僕は頷いた。なら都合が良い。


「じゃあさ、マフィン君。僕を手伝ってくれないかな」僕は注意して表情を和らげた。

「今日はユウミさんがいないけど、皆で協力すればそこそこのディナーになると思うんだよね。シャーロックも呼んで適当に何か食べよう」


 マフィン君はもちろん断らなかった。

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