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ローズマリーの夢 Ⅱ



“拝啓、未来の旦那さま……”

それは運命の人を垣間見る、ローズマリーのおまじない。

政府の要人が狙撃され、大騒ぎになったバレンタイン。

家族との約束もフイになり落ち込んでいた十七歳の少女バジルは、伯母の勧めで不思議な夢に迷い込むが……。

運命とは救いだろうか、呪いだろうか?

甘く危険なもう一つのロンドン・ストーリー。





 ◆拝啓、未来の……



 ふわり、ふわり。まるで妖精の綿帽子のような雪が、空から落ちて来る。

 ここはロンドンのはず。でも辺りは一面銀色で、お馴染みの石畳も見えなかった。ただポツポツと並ぶ街灯が、舞台上のスポットのような光を淡く投げかけている。

 私は緑色のワンピースを着て、茶色い革靴を履き、薄紫のベレー帽を目深にかぶった、冬の夜道にはまるで場違いなほどのお洒落さんだった。コートも着ていないけれど、不思議に寒さを感じない。だから至極ゴキゲンで、バレリーナよろしく踊りながら光をくぐって歩いて行く。足の先の向く方へ。


 ここが何処なのかは分からない。海側? 山側? 西か東かそれとも南?

 でも街外れであることは確かで、行けば行くほど、周りの景色も寂しくなった。人家はまばらになり、鉄条網の絡まったフェンスが破れかぶれに立つ草ぼうぼうの荒れ地が広がっている。そこかしこに、乗り捨てられた車があり、タイヤやドラム缶や廃材が真っ白な雪をかぶって転がっているのが見えた。

 少し不安になったけど、私の足は止まらない。何か強い力で引っ張られるように先へ先へ進んで行く。

 そうしていつか、時代の隅に打ち捨てられてそれきりの、コンクリート工場の跡に着いた。


 いつもなら横目で見るだけでさよならするような場所だけど、今日の私はちょっと違う。怖いという気持ちはある。でも、中に入らなきゃいけないという切迫した想いに駆られた。私は深呼吸を一つして、破れた大窓の一つから中に侵入した。


 鉄骨は錆び、壁にはひび割れが走り、かつて生産ラインがあったであろう広い空間は闇に沈んでいる。天井に開いた大穴から月の光が差し込んでいるけれど、それはとても弱々しかった。

 

 ふと、誰かの話し声が聞こえた気がして私は立ちすくんだ。

 空耳かしら? いいえ……本当に人の声だ。部屋の奥に誰かがいる。そこだけまるで闇が濃くなったように、異様な雰囲気が立ち籠めていた。


「……こんなムサイ所に貴方を呼び出して悪いわね。本当ならパスタの美味しいお店で、ワインでも飲みながらと思ったのだけど」

「気にするな。街はどうせ検問だらけだ」

「それもそうね」


 私は慌てて崩れかけた木箱の影に身を潜めた。心臓が早鐘を打ち、呼吸すらままならない。

 彼らは一体何をしているの?


 一人は、黒いコートを纏った背の高い男性だ。闇に溶け込むように立っているので顔は分からない。ただ、影に沈んだ右手の位置で、何かが時々鋭く光る。シガレットケース? ライター? それとも――


 もう一人は、ダークレッドのスーツを着込んだ金髪の女性。まるでスクリーンの中の女優のように完璧なボディラインの持ち主で、両手の白手袋が闇に浮き上がるようだった。

 彼女は背後のボディーガードらしき人達からトランクを受け取ると、コートに男性に向かって差し出した。その仕草は優雅そのものだったが、どこか冷ややかだった。


「一マイル(約一.六キロ)も先から撃ったって聞いたわよ。貴方の仕事は本当に見事ね」


 彼女は微笑みながら、ゆっくりとトランクの蓋を開けた。

 私の所からではよく見えないけれど、そこには束になった札束がぎっしりと詰まっているようだった。

 コートの男性はしばらく無言で、それを見つめていた。


「……随分と多いな。俺が掲示した金額の二倍はあるぞ。アンタらは耳が悪いのか? それとも武器商人ってのは、底抜けに気前が良いものなのか?」

「あら、ご謙遜ね。私達は貴方に感謝しているのよ」


 女性は黒っぽい唇を歪めて艶やかに微笑んだ。


「あいつは――あのフォーブスの馬鹿は、私達のお金を影でコソコソ盗み食う、始末に負えないクソネズミだったのよ。それにばしこくて、首相に取り入るのも上手くてね。ずいぶん困らされたもんだわ」


 待って、待って……。

 眩暈を感じて、私は額を抑えた。

 二人の言葉が頭の中でグラングラン、大地震を引き起こしている。


『フォーブス馬鹿』っていうのはきっと、今日夕方に国会議事堂前で狙撃された、あのフォーブス・バレリー大佐のことだろう。

 じゃあこの人達は――狙撃犯と、殺人教唆犯ってことになる。怪しい雰囲気の人達だとは思っていたけれど、そんな……


「それはともかく、」


 女性は滑らかな声で歌うように言った。


「貴方はとても腕の良い殺し屋さんだし、私達としてはパートナーシップ契約を結んで置きたいところなの。例えば、そう――こんなのってどうかしら? 依頼一つに、報酬を二倍。依頼のない時でも、三ヶ月に一度、それなりの手当を払わせてもらいます。でもその代わり、こちらの人間に関わる依頼が余所から入った時は、断って頂きたいの」


 ジュッという音がして、コートの男性の顔周りが一瞬明るくなった。ライターの小さな炎で、一瞬だけ。長い黒髪が艶やかに光った。


「考えてみよう」

「……そう言ってくれると思ってたわ」


 男性の言葉に、女性は安堵の息をもらしたようだった。


「俺はいつまでに返事をすれば良いんだ?」

「そうね、あと五時間しかなくて悪いけれど、今夜二十五時までに。それに……返事は行動で表して欲しいの」

「どういう意味だ?」

「そう難しいことではないわ。今夜貴方にもう一度、引き金を引いてもらいたいってだけ」


 甘やかでありながらどこか張り詰めた声が、静寂の中に落ちた。

 一拍おいて、男性が応じる。


「標的は?」

「貴方もよく知っている男。ICPO特別捜査官のマーカス・ハート。あの赤毛の男よ」


 それを聞いた瞬間、私は全身の血が逆流するほどのショックに襲われた。声を上げなかったのは奇跡だ!

 私は震える指で必死で口元を押さえ、気配を殺す。

 どうして?! どうして父さんを殺そうって言うんだろう?!


「あの男はね、とんでもないお邪魔虫なのよ」女性は肩をすくめて言う。

「賄賂でも受け取ってくれるなら良いんだけど、頑固のきかん坊で、ね」

「美徳は必ずしも益にはならんと言う訳か」

「まあね。あいつは過去に何度も私達の取引をダメにして来たの。私達がこんな吹きっさらしの場所で喋っているのもあいつのせい。もういい加減腹が立っちゃったから、ここらで潰しちゃって欲しいのよ。後始末は引き受けるから、どうぞよろしく。うかうかしているとフォーブスの件が飛び火しそうで面倒だし」

「理屈は分かったが、何故今夜一時までなんだ?」


 女性は片手で前髪をかきあげて、微笑んだ。


「私がリッツの705号室で待っているからよ。あなたの好きなお酒を用意して、シルクのバスローブを羽織ってね。大丈夫、あの男さえ殺せば検問所も消えるわ。蜃気楼みたいに」


 “楽しいバレンタインにしましょう――”

 その言葉を残して、女性は手をふり踵を返した。それまで石のように黙っていたボディーガードらしき人達も向きを変え、女性を警護する形で去って行く。複数の足音が異様に響きながら遠ざかった。

 コートの男性は煙草を咥えてそれを見送っていたけれど、やがて帰り支度を始めた。お金の詰まったトランクの蓋が閉まる、カチンという音が聞こえた。


 私は、全身を強張らせたまま、どうすればいいのかを必死で考えていた。


 父さんが狙われる――フォーブス大佐を殺した狙撃犯に。

 この話を誰かに伝えなければ。父さんに知らせなければ。そうでないと手遅れになる!

 

 でも、私のポケットにスマホはなかった。そりゃ私はSNS依存症ってわけじゃないわ。だけど、どうしてこういう時に持っていないんだろう!

 心の中で地団駄を踏んだけど、仕方ない。早くこの場を離れて電話を探さなきゃ。それか、私自身が父さんに伝えに行くしかない。近くに警察署はあるだろうか。


 木箱の影から部屋の様子を伺うと、コートの男性はもういなかった。

 私は少しホッとして、物音を立てないように気をつけながら立ち上がった。


 その時だった。


「動くな」


 心臓が止まりそうになった。

 振り向くと、暗闇の中からゆっくりと、あのコートの男性が現れた。


 いつの間に――!?


 男性は音もなくこちらに近付いて来る。その手には銃が握られていた。


 逃げなきゃ、早く、早く――!


 でも足が竦んで言うことを聞かない。やっと駆け出した時には遅く、男性の腕が伸びて来て、私は手首を掴まれてしまった。そのまま強引に引き寄せられる。


「お前……何処の女だ?」


 冷たい声が耳元で囁く。

 恐怖で頭が真っ白になり、足の力が抜けてしまった。私は彼の腕の中で、崩れるように膝をついた。


「今の話を聞いていたな?」


 私は震えながら、必死に首を振った。NO,NO,NOって。

 

「おいおい、お前はあの女が喋り始めた時からいただろうが。嘘をつくな」


 彼は笑った。笑ったけれど、私の手首を握る手には一瞬力が籠もった。骨が潰れてしまうんじゃないかと思うほど痛かった。ふいに涙が溢れて来て、視界が滲む。


 私、私は――どうしてこんな所にいるのだろうと思った。

 このまま殺されてしまうのだろうか。こんな廃工の片隅で、誰にも知られずに。

 でもそれじゃ、父さんが……私の大事な父さんが。


 男性は片膝をつき、顔を近づけて来た。獣じみた二つの目が、暗闇に白く浮かび上がっている。


「どうした? 言いたいことがあるなら言え」


“いいえ、何があっても声を出してはいけない”――伯母さんの声が聞こえて来たような気がした。でも……。 私はワンピースの袖で涙をぬぐい、震える唇を動かした。


「お願いです……マーカス捜査官を、殺さないでください」

 

 破れた窓から吹き抜ける、細い風の音が聞こえる。

 一瞬の間を置いて、彼は冷笑した。


「妙な女だな。それより自分の心配をしたらどうなんだ? あの男とお前に何の関係がある?」


 私の父ですとは、言えなかった。言ってはいけないと、とっさに感じたからだ。何故かは分からないけれど、とても強く。――いいえ、ただ声が出なかったのかも知れない。

 彼の瞳は私の全てを見透かしているようでいて、何も見ていないようでもあった。


「まあいい……。だがあの女の話をお前も聞いていただろう。断るには惜しい契約だと思わないか?」


 彼の指先が、そっと私の顎をすくい上げる。

 それまで雪粒すら気にならなかったのに、初めて冷たいと感じた。


「お前はあの男の命と引き換えに、何をくれる?」

 

 彼の指が、首筋をなぞる。肩から背中へとゆっくりと滑って行く。


 私は抵抗しなかった。

 何かを差し出せば、父さんは助かるのだろうか?


「……ミスター、わたし……」

 

 銃がコンクリートの床に落ちた。

 その瞬間、彼の唇が私の首筋に触れた。

 

「あ……」


 ひやりとした感触に、震えが走った。

 全ての音が遠のいて行く。

 吐息が白く煙る中で、風の音も、夜の静寂も、頭の中のざわめきすらも。


 怖かった。でもそれ以上に、体が熱かった。このまま溶けてしまいそうなほどに……。

 襟ぐりを広げられ、優しく押し倒されながら、私は奇妙で、狂おしいほどの予感に満たされていた。


 この人は――私の未来の旦那さまだ。

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