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クロイツェル・ソナタ【Ⅱ】


Ⅱ. アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ(Andante con variazioni)


A-dur――それは嵐の前兆。狂気と破滅のイントロダクション。

現代英国。MI6の諜報員ロビンが怠惰な恋を終わらせた頃、

ロンドンでは一人の男の殺人を巡って政府の壮大な茶番劇が繰り広げられようとしていた。

愛とは、真実とは、正義とは、何だろう。そして自分の生きる意味は……?

報いのない人生に疲れ果て、雨の街を彷徨うロビンに答えを差し出したのは、

決して嘘をつかない男が奏でるヴァイオリン・ソナタだった。

雷鳴轟く三月二十六日、ベートーヴェンの命日に寄せて。




Ⅱ. アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ(Andante con variazioni)




 「さてさて、第二章の幕が開きます」


 僕はコツン、と指でテーブルを叩いた。


「ジョナス・オウルデイカーが殺人犯に成り下がったことを知って、驚いたのはその後援者たちだった。これではもう彼を国のトップにして置くことは出来ない。せっかく国民に慕われた、良い駒だったのに!ってね」


“奥方は強盗に殺されたのだ”という流れにしても良かったが、何しろ奥方も結構な家柄の出で、この国の企業の大半を束ねる何とかグループの娘だ。遺族達が黙ってはいない。オウルデイカーの処遇について、「最低でも国外追放しろ」と言って来た。


「そこで、後援のジジイ共は考えたんだ。オウルデイカーに集まっている国民の好意を最大限に利用しつつ、彼を無理なく壇上から引き下ろす、そんな晴れ舞台を用意出来ないかってね……。それが二週間後に開催される公開演説イベントなんだ。彼はそこで、“英国は強い国でなければいけない。平和が欲しいなら戦いの準備をせよ”みたいな戦争熱を煽る演説をして、見物人の一人に撃たれるって寸法さ」

「くだらん芝居だな」

「あ、分かる? そうなんだよ。これはお芝居で、オウルデイカーは死んだふりをするだけなんだ。それで、その日の内に海外へ飛ぶことになってる」


 物語はリアルタイムで進行中。第三章はどうなることやら――でも、多少の想像はつく。

 シャーロックのように初めから全てを疑ってかかる人間なら騙されないだろうが、国民は子供の頃から「政府は嘘を付かない」ものとして教えられている。だから目の前で“非業の死”を演出されたら、それがB級映画並みの出来でも、素直に飲み込むだろう。真実として捉えるに決まっている。そして、オウルデイカーの「扇動演説」を、宝物のように胸に仕舞い込んでしまうんだ。

 

 そしたらどうなる?

 数十年先に政府が起こしたいと思っている戦争を、好意的に迎えようとする下地が出来てしまう。

 そして、それで充分だ。ブラジルの蝶の羽ばたきが、いつかテキサスの竜巻を起こすというのなら。


「――そういうわけで、MI6はとても大切な時期にあるんだよ。納得してくれた? それともまだ何か聞きたい?」

「ああ。実はもう一つ聞きたいことがある」

 

 シャーロックはテーブルに視線を落としたまま、何気なく言った。


「ヘンリー・スチュアートってのは、いい男か?」


 心臓が跳ねた。もちろん、顔には出さないけれど。


「始めて聞く名前だね」

「ランガム・ホテルの245号室。昨夜三時までお前が一緒にいた男だ」


 そこまで知っているなら、わざわざ聞く必要もないだろうに。

 本人を捕まえて答え合わせをするというのは彼の常だけれども、趣味が悪いとしか言いようがない。

 僕は軽く舌打ちをした。


「それがどうしたって言うんだい? 君だって、お義兄さんのクラブに始終出入りしているじゃないか。ファミリーのホームだからそれは当然だとしても、夜の姫達と全く関係がないなんて言わせないからな。彼女らの方が君を放っておかないだろうし」


 煙に巻こうとしてみたが、シャーロックは乗らなかった。

 意図的な沈黙の後で、何事もなかったかのように言う。


「ヘンリー・スチュアートは、お前の魂を何処まで満たす存在だ?」


 僕は溜め息をついた。

 答えなんてない。あのトパーズのピアスだって、何処ぞの娘の鞄に捨てた。青い青いその石は、水溜まりに映る星のようにキラキラ輝いていたけれど。


「らしくもない質問をするじゃないか。むしろ、君にはどう映るか聞いてもいいかい?」

「そうだな……」


 シャーロックは初めて笑みを見せ、でも決して笑っていない瞳で僕を見据えた。


「今日のお前は、鈍い」

「鈍い?」

「馴染みのウェイトレスが敵にお前を売らないなどと、どうして断定出来る?」


 煙を吐き出したシャーロックの背後を、まだカフェの終業時間でもないのに、エプロンを取って身支度を調えた彼女が通り過ぎて行った。僕はさっき飲み終えたばかりのコーヒーカップに目を落とす。


「安心しろ。砂糖を多めに入れさせただけだ」

「――どおりで。さっきよりも甘いと思ったよ」


 僕の呟きにシャーロックは笑い、手元のカップを軽く回した。

 その手の動きは、まるで僕の人生全体をひっくり返す予行練習のように見えて、若干の不快さを感じる。


「俺はな、ロビン。先の件がもしMI6の仕業なら、お前を撃ち殺していたかも知れん。そのための銃もここにある」

「へえ。そう躊躇わずに、今ここで殺ってくれても構わないけどね」


 僕はなるべく苛立ちを抑えて言った。


「だけど、こんな往来で? 誰にも見咎められることなく? 銃でズドンと? おいおいシャーロック。愚の骨頂だとしか言いようがないね。何処かの魔法使いみたいに透明マントでも被って殺るつもりだったのかな? 君も僕も、こうしてここに座っているだけで相当目立つんだぜ」

「周りを見てみろ、ロビン。本当にそう思うか?」


 雨の音が、やけに大きく聞こえた。

 首を巡らせて確かめるまでもなく、黒髪でロングコートを羽織った人間や、僕のように白っぽい髪の人間達がそこら中にいた。彼らは皆、コーヒーやパンを片手に談笑していた。

 僕とシャーロックはとっくに目立つ存在ではなくなっていた。


「現実を把握したか?」

「ああ……。君の言う通りだと認めざるを得ないね」


 自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きて、僕はつい笑い出してしまった。

 そりゃ、僕のコートの内ポケには、大抵の毒を無効化する解毒剤が入っていたし、不意を突かれたとしても全く問題ないほど接近戦には自信があった。

 でも、誰よりも早く嵐を見抜くのがウミツバメというものだ。それが、風の乱れを読めぬほどに衰えてしまったなら……存在価値などあるのだろうか?


「まあ今日の所は、お前に感謝こそすれテムズに沈める理由はない。だから――」


 シャーロックは二人分のコーヒー代をテーブルの上に置き、椅子を軋ませながら立ち上がった。


「暇しよう。また次の機会まで」


 激しさを増す雨の中を、相変わらずの鋭さで。慈悲の欠片もない声で。


「やだよ」


 どうして約束するのだろう?

 その“次”は永遠に来ないかも知れないのに。


 だけど、シャーロックはある種の確信を持った潔さで、背を向けた。彼の姿が遠ざかるほどに、僕の耳には世界のノイズが戻って来る。







 MI6から連絡があったのは、それからちょうど二週間後のことだった。

 僕はそれまで、日がな一日キャンバスに向かい絵を描いていた。題材は何でも――と言いたいが、僕が描くものは、時限性のものが多い。弾き手のいない楽器や、しおれかけた花や、若い男女と彼らの髑髏。何故それを描くのかは自分でも分からないが、意味はあるのだろうと思う。筆を動かしている間は何もかも忘れられたから。

 スマホが鳴ることは、それを邪魔されること。

 折しもこの二日間、それまで毎日のようにヘンリーが送って来ていたクソ意味もないメールが途絶えてホッとしたばかりだったから、僕はより嫌な気分だった。バカンスの夢を見終わらぬ内に、目を覚ませと言われたようで。


 件名には【緊急任務】とあった。



  ◆◇◆◆◆◇◆


 [OPERATION] Bridge tower

 Fall down


  ◆◇◆◆◆◇◆



「OPERATION:Bridgetower」とは、オウルデイカーに「最期の演説」を披露させるためジジイ共が用意したイベントのことだ。


 だけど、なに、Fall down……失敗?

 

 僕は椅子に座り直して詳細を読み始めた。そこにあったことを簡潔にまとめると、こうなる。


 イベントは時間通りに始まったが、一番の盛り上がり――オウルデイカーが凶弾に倒れるという姿を見せようとしたところで、邪魔が入った。

 犯人役の男が、音は出るが弾は出ないオモチャの銃を構えた瞬間、観客の中から数人の男が飛びかかって、彼を押さえつけてしまったのだ。

 オウルデイカーにもその様子は見えていたが、酷いパニックに陥り、作戦を中止出来なかったらしい。“飛び出すな! 車は急に止まれない”というやつだ。

 結果、犯人役が引き金も引いていないのに、銃声一つしていないのに、腕や肩や腹や胸に計四カ所も仕掛けていた血糊袋を爆発させてしまった。観客らの前で、オウルデイカーは勝手に血を噴いて倒れるという痴態を演じてしまったのだ。


 マスメディアが「オウルデイカー殉死」の場面を映すため、会場に集められていたことも裏目に出た。彼らはイベントを全国規模で生放送していたから、どこもかしこも大騒ぎになっているらしい。

 

 だが、本件はそれで終わらない。MI6は新たな作戦を思いついたらしい。



  ◆◇◆◆◆◇◆


 [OPERATION] Thunder

 Go


  ◆◇◆◆◆◇◆



 何が「Go」だよ。僕に尻拭いさせようとしやがって。


 僕が舌打ちしている間にも、ファイルが送られて来る。

 まずは、金髪で身長百八十センチ、三、四十代の白人男性たちの画像と名前と住所が連ねられたリストだ。それがどっさり。

 次に一枚だけ、人間のシルエットに四つのポイントがマークされている図が来た。


 指示の詳細を読むまでもなく、MI6の腐れ加減が分かった僕は、溜め息をついて立ち上がった。バスルームの天井から銃や弾やらを取り出すために。

 期限は今日の二十三時までという。今は十七時だから、急がなければいけない。







 何の変哲もない住宅街の一角。

 一足早く季節を変えたような素晴らしい庭の真ん中で、今の今まで花輪作りにご執心だった、小さな女の子が顔を上げる。


「ねえ、ねえ、パパ……あの木のうえに、ネコさんがいるよ」


 父親は芝生に膝をつき、彼女の指差す方を見た。


「ほんとうだね、リリー。彼はあそこで僕らや世界を見下ろしているんだ」


 どこで覚えたのか、女の子は「いっぴきおおかみ!」と舌足らずに叫んだ。父親は彼女の頭を愛おしそうに撫でた。


「そうだね、彼は毎日一人で戦っているのかも知れないね。ちょっと寂しそうにも見える」

「かわいそう! おうちで飼っちゃだめ?」

「はは、それはママに聞かなきゃ……でも、彼はそれを望まないと思うよ」


 通行人のふりをして彼らの様子を伺っていた僕は、コートのポケット越しに銃を構えている自分の愚かさと情けなさに、声を上げて笑った。

 当然、女の子と父親はギョッとしたようにこちらを見る。保護者の勘だろう、父親はすぐに携帯を取り出して「通報するぞ」という素振りを見せた。まあ、問題はない。僕は去ると決めていた。


 僕は手を降って大人しく通り過ぎ、近くにあった公園に折れた。

 だけど、錆びたベンチに腰を下ろしたら、本当に笑いが止まらなくなってしまった。


 ペントンビル街のマクファーレンは、婚約したてだった。

 ハーレ街のジョージには、老いた母がいた。

 ボンド街のハーカーは、父の仕事を継いでいた。

 そして、ここカムデン街のコーネリアスは、我が子を愛している。


 それを、MI6はぶち壊せと言う。

 何故か? 『英国の未来のために』だ。


 オウルデイカーの殉死イベントが派手に失敗してからというもの、さすがの国民も政府を疑い始めているらしい。ネットには「アレは茶番か?」「違うだろ」「いやいや絶対自作自演だ」というような書き込みで溢れている。

 マスメディアは必死に「オウルデイカーの死を悲しもう」と呼びかけているが、あまり効果がない。そこで、生み出されたのがこの作戦だ。


【オウルデイカーを国葬にして、何処かの大きなホールに国民を集め、その厳粛な雰囲気に嫌でも巻き込む】


 嘘はつくならデカい方が、嘘と気付かれにくい。かのヒトラーだってそう言っていた。


 だがこの葬儀イベントを開催するには、一つ問題がある。

 十八時現在、肝心の「オウルデイカーの遺体」がないことだ。

 例の演説イベントが失敗した後、オウルデイカーは予てからの計画通り、偽物の救急車で空港へ向かい、自家用ジェットに乗り込んだ。そしたら、それが爆発したらしい。地面から数フィートも離れない内に。

 ――実を言うと、誰がいつ撮影したのか、この「ジェット炎上」動画もネットに流出している。オウルデイカーが血糊のついた服で乗り込むところから、バラバラで焦げ焦げの爆破死体に成り果てるまで。

 これは新たな論争の的になり、演説会の件にガソリンをかけてダイナマイトを投げ込むようなことになった。

 政府のジジイ達は頭を抱えただろう。

 だが、もう後戻りすることは出来ない。とにもかくにも葬儀を開催しなくては。

 そして――僕に白羽の矢が立ったのだ。


 その任務内容を簡潔にまとめるなら、コレだ。


【オウルデイカーと背格好がよく似た人間を、四カ所の弾傷がある死体にして持って来い】


 ぽちゃん、と目の前の濁った池で何かが跳ねた。

 空はもう暗く翳り、木々の向こうに見えるビル街は、切り絵のように見えた。

 僕はおかしくもないのに笑い続け、でも、血を吐いたのをきっかけに止めた。それからずっと黙っていた。やがて雨が降り出した。


 MI6が用意したリストには、まだ三十人以上の候補者がいる。でも、とっくに破綻している嘘に起こさなくても良い悲劇で加担するような任務を、もう遂行してやるつもりはなかった。犯罪者らの中からと言うならともかく、無垢の民を殺せとは、この国も相当腐っている。


 僕はもう充分だと思った。もう充分、もう潮時――

 そうだ、今から適当に変装して、パリにでも行ってしまおうか。凱旋門の下をくぐり、巨匠達の絵を眺め、それから小さな屋根裏部屋で、さっさと首に縄をかけよう。


 その時、僕の胸ポケットの中で、スマホが鳴った。

 僕はしばらくどうしようかと迷った。パリに行くならスマホは、池のカエルにあげても良い。

 ただ、最初の着信から一分と立たない内にもう一度鳴ったので、見るだけは見てみようと取り出した。


【今夜九時 CLUB:DIOGENES 都合が良ければ来い】

【悪くても来い】


 送信者は「unknown(名無し)」とあったが、それが誰だか、容易に見当がつく。シャーロックだ。

 目を通している間にも、もう一件飛んで来る。


【いつぞやの返礼をしよう】


 どういう意味だ? さあ、言葉通りの意味だろう。

 彼は僕と違って、嘘を付かない。ただ真実を隠すだけ。

 

 ベンチから立ち上がると、腹の辺りに溜まっていた雨が音を立てて落ちて行った。それで足は更に濡れた。何故だか急に寒さを感じた。


【今から行っても良いかい?】


 スマホの画面に流れる雨を拭いつつ、僕はついそう書いた。書いた後で消そうとしたが、指が滑って飛んで行った。返事はすぐに来た。


【来い】

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