弾痕とホットチョコレート Ⅲ
◆招かれざる客
シャーロックは扉の向こうで生返事をしたきり、とうとう三階から降りて来なかったけど、マフィン君と僕はパンやチーズやワイン、それからスーパーで買って来た野菜を持ち寄ってシチューを作り、ささやかな夕食会を開いた。
どうもマフィン君は料理人の才能があるらしく、シチューは思いがけないほど美味しかった。シャーロックの分まで残しといてやるのが少し癪なくらいだった。
そんなだから僕も気を良くして、わざわざ部屋の電気を消してキャンドルを灯すという演出に凝った。パチパチ暖炉で薪が爆ぜる音を聞きながら、心地良い闇に沈む。ムードは満点だ。
きんきん きらきら こうもりさん おまえは なにをねらってる――
興に乗ってイカレた帽子屋の歌やら心配性の仕立屋の歌やらを口の中で歌っていたら、いつの間にか真夜中も過ぎ、一時近くになっていた。外で庭石がじゃりじゃりいう音が聞こえて我に返った。こんな遅くに誰が来たんだろう?
そういえばマフィン君は?
ふと気付くと声がしない。不思議に思って首を回すと床に転がって寝ているのが目に入った。
それで、『ああ、そうだった』と思い出した。途中で何度か席を立とうとしたり、シチューをおかわりしようとしたので、お茶に睡眠薬を混ぜて眠らせたんだっけ。
それにしてもマフィン君は不器用だ。さっきまでカウチの上にいたはずなのに、寝返りでも打って落ちたのか。ま、一日くらい床で寝たって平気だろう。これでようやく目当てのことが出来るし、それに――
僕はキャンドルを吹き消し、カウチにかかっていたブランケットを取り上げて、マフィン君の体をすっぽり覆った。そして、まるでツタンカーメンの棺桶のようなシルエットになった彼をずるずる引きずって、暖炉前の低いテーブルの下に押し込んだ。ついでにソファのクッションやテーブルの本をじゃんじゃか彼の周りに積み上げ、ちょっと見にはそこに人間がいることなんか分からないようにした。まあ何で物が積み上げてあるのかも分からないわけだけど。
僕自身は、ガサガサ火かき棒で乱暴に炎を蹴散らして、暖炉の中にしゃがみ込んだ。壁は熱いけど、触れなければ大丈夫だ。
まもなく居間の大きなフランス窓の辺りでガラス切りを使うキーーッという細い音が聞こえ、続いてカチッと鍵が鳴った。黒い影法師が見えたかと思うと、太い腕がぬっとカーテンを払い、暗視ゴーグル付きのヘルメットに防弾チョッキ姿のお客様が四人、次々に姿を現した。銃を構えながら。
一人目はソファや飾り棚の間を縫って、ゆっくり居間を横断して行く。二人目と三人目はその援護をする形で両脇に付いている。彼らは僕にもマフィン君にも気付くことなくそのまま進み、やがて玄関の方に消えた。その後どうしたか、ここからは見えないけれど、階段を上がって行く足音が聞こえる。
でも四人目はグズグズしていた。入って来た窓の前から動こうとせず、首を巡らせて部屋を見回している。外や一階に異変があれば仲間に知らせようっていう腹づもりか。あーあ、迷惑だな。僕はそろそろ足が痛くなって来たし、上に行った人間たちの方が気になるのに。
僕は忍び足で暖炉から離れ、ただの二歩で客人の傍らに立った。
ハッと振り返った彼の顔は何処かで見たことがある気がした。何か不快な出来事とセットで。
僕は何も持っていない無防備な掌を見せ、にこやかな笑みを作って言った。
「Good evening, Mr. 僕はロビン。ここの住人の一人だけど、こんな遅くに何の用だい?」
MI6から情報が漏れたというならいざ知らず、こんな重装備で寝込みを襲って来るような客人に心当たりはない。多分シャーロックがらみの刺客だろうけど、問題は、どんなに邪魔が入ろうと彼しか殺すつもりのないプロなのか、目的達成のためなら無関係の人間を殺すことも辞さない雑魚なのか、ということだった。前者なら僕は口出ししない。
彼はきゅっと口を結び、腰から黒いナイフを抜き出した。いきなり銃声を轟かせては上のシャーロックに気付かれると思ったからだろうが、やれやれ。残念。彼は後者の方らしい。
一瞬の後、僕は身体を駒のように回転させて突き出されたナイフを躱した。同時に彼の首へ手を伸ばし、ゴキリとへし折った。彼は声一つ立てずに倒れ、後はカーテンが外からの風に煽られてひらひらしているだけ。
僕はすぐさま窓の外を確認したが、大丈夫、門の向こうの道路にも庭の花壇や木々の間にも、僕の足元で永久に眠り込んだ彼と上に行った三人の他に我が下宿の平穏を乱す者はいないようだ。マフィン君はここに置いて行っても平気だろう。
僕は彼らが開け放した扉を抜け、忍び足で階段を駆け上がった。
途中の窓から見下ろせるロンドンの街は、空からココナッツパウダーをぶちまけられたかのようなありさまで暗闇の底に眠っていた。月と星は手を取り合って雲隠れ《ランデヴー》といった所かな。招かれざる客人が現れたのもこんな天気だからだ。
上に行った三人の内一人は、まだ二階のシャワールームの周辺にいた。大きな洗濯機の中を見た後は共同トイレの二つしかない扉を一つ一つ慎重に開けている。ご苦労なものだ。
僕は背後からぬっと彼の肩先へ顔を出して、朗らかに声をかけた。
「Good evening, Mr. 僕はロビン。言っておくけどシャーロック・ホームズじゃないよ。ここの住人の一人だけど……」
まだ言い終わらない内に彼は凄い形相で振り返り、銃口を僕の頭に押し当て、引き金を引きかけた。だからまあしょうがない。僕はさっと身体を右に流し、すかさず左手でその銃を奪った。彼には何が起きたか分からなかったろうけど、その方がいい。
僕は一階の男にそうしたように彼の首を捻り、もう何処にも歩いて行くことのないようにしてから部屋を後にする。
彼はたいそうな銃を持っていたけど、ここは何も知らないマフィン君やユウミさんも暮らす普通の下宿だ。シャーロックのように所構わず穴を開けるなんていう非常識なマネはしたくない。ナイフも使うつもりはないので置いて行く。
そうして三階に上っていくと、真っ暗な廊下をじりじりと歩く二人がいた。
彼らは二階にいた男のように “扉があれば開けてみる” というような慎重派ではないらしい。あっという間に三号室――マフィン君の部屋の前を通り過ぎ、二号室――シャーロックの部屋の戸口に差し掛かった。が、何ということでしょう!
彼らはそこさえも通り過ぎて、一号室――僕の部屋の扉の前で立ち止まった。鍵穴に針金っぽいものを差し込んでカチャカチャやり始めた。
おいおい、何故僕の部屋だ。
扉には何の防護策も施していなかったから、たちまち開いてしまった。
黙って見ていると、先頭の人間がまず部屋に姿を消した。二番目もそれに続こうとしたが、その前に僕に気付いた。まあその時には真横にいたからね。
「Good evening, Mr. 僕はロビン。ここの部屋の主だけど……」
残念ながらこの男も、僕が喋り始めると同時に黙らせようとして来た。ただ、銃身が長いせいで弾の出る部分が僕の脇腹の向こうにあったから、一階の男のようにナイフを抜いた。それが心臓めがけて突っ込んで来るのを反り返って躱し、左手で叩き落としながら、僕は壁のスイッチを押した。
廊下はパッと明るくなり、目の前の彼が「わっ」と悲鳴を上げた。裸眼の僕さえまぶしさに目を細めたほどなのだから、暗視ゴーグルで明かりを拝むのはかなりキツかっただろう。
僕は彼が目を押さえて転がっている間に、今生の別れを告げさせた。方法については言うまでもない。
でもその時、開けっ放しの部屋の中でヘルメットを脱ぎ捨てた男が、猛獣のように唸りながら僕に飛びかかって来た。
ごろり床の上に転がされ、すかさず肩口を押さえられる。胴に膝を乗せられる。
あまり経験のない低い位置から見上げた客人は、ちょっとその辺では見かけないくらい大きな男だった。でも何処かで見たような覚えがあるのはどうしてだろう。
曲がった鼻や分厚い耳たぶ、それに燃えるような目は、彼が裏社会の猛者であることを暗に物語っていた。でも更に印象的なのは、腕や足や胴の太さ・厚さだった。優に僕の二倍ある。
固められた拳は大きくて、我が国のリンゴ三つ分くらいはあった。今のところ彼の顔の横で止まっているけども、もしそれが振り下ろされたら――そしてまともに喰らったら――コンクリートでさえひび割れる。僕の鼻なんか木っ端みじんだろう。喰らってやるつもりはないけど。
僕は以前女の子たちに「天使もかくや」と表された笑顔を作り、「Good evening, Mr. 僕はロビン……」と始めた。でもやっぱり途中で、男が「黙れ!」と怒鳴った。
「お前は何だ?! 下の連中はどうした?! お前が殺したのか?!」
嘘を付いても仕方がないので僕は頷いた。
「そう。でも正当防衛だったんだ。君らが何の目的があってここに侵入したのか知らないけど、僕は無関係のはずだ。しかも丸腰で敵意もない。ちゃんと挨拶したし、それぐらい分かるだろう? なのに襲われたからさ」
直後、彼は拳を振り下ろした。
間一髪避けながら、僕は以前斧で砕いた頭蓋骨のことを思い出した。ああなるのはゴメンだった。
僕は僕の肩を押さえている彼の腕を両手で掴み、次の瞬間にはへし折った。
でもアドレナリンの作用か、彼は暴れ牛のように唸っただけ。折れていない方の手で傍らの銃を掴んだ。黒光りする銃口が僕の目を覗き返す。
「死ね!!」
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